2 忘却「ぼうきゃく」

いつもと変わらぬ午後。
高町なのは は管理局の窓から、眼下に広がるミッドチルダの町並みを眺めていた。
故郷である地球、そして日本の首都である東京を思わせる煙るような大都会、
そこには幾人もの人々の営みがある。

この町を護る、そしてここだけではない様々な次元世界も。
そのための力を持つ者を少しでも多く養成する。
彼女には、そうした使命があった。

少しでも、弱き人々の力となるための人材を。
一人の手は小さすぎて、多くを護ることは出来なくても、
より多くの力が集まれば、それはきっと大きな力になる。

その先陣をきって、自分が皆の想う道へと導く担い手となる。
それは、膨大な魔力という稀有な才能に恵まれた自分の使命だと信じていた。

今日も次元犯罪者達は世界の闇で暗躍し、力なき人々はその毒牙に虐げられる。
それは黒霧のような不安となって彼女を悩ませる。
悩んだところでどうにもならないが、悩まずにはいられないのだ。

しかも、今の彼女を悩ませるのはそれだけではなかった。

「私…、昨日何をされたのかな…」

記憶が曖昧だった。
何者かに背後から襲われ、貫かれた…
ような気がする。しかし、体には何も異変がなく、
気がついたらベッドの上で制服のまま眠っていたのだ。

「いけない、ここで不安になっている場合じゃないのに」

実のところ、曖昧な記憶はさして気にかからず、
不自然な程に心から霧散していった。
それよりも、そのような『幻覚』を見てしまう自分の脆弱さに情けなさを覚えてしまう。
きっと、以前から感じていた不安が見せた夢だろうと、
彼女はそう片づけてしまったのだ。

今の彼女にとって向かい合うべき悩みは、曖昧な記憶等ではなく、
ここ数週間で急に六課全体から感じられるようになった
得体の知れない 『異様な雰囲気』 への漠然とした不安だった。
その事の方がはるかに重大な事だと認識している。しかし…

その不安に気取られて、彼女はもっとも重大な事を見過ごしていたのだ。
本当の問題は霧散した方に存在している、その事実に。
彼女は気づかない。
それが自らを変質させる『種』であることに。

運命の歯車が不協和音を奏ではじめた。
ガラガラ、ガラガラと…
不気味な音を立てて。




「フェイトちゃん、ちょっといいかな?」

それから数日たった午後。
なのは は管理局の廊下ですれ違ったフェイトに話しかけた。

「どうしたの?なのは」
「フェイトちゃんに相談したいことがあるんだ」
「うん、私で良ければ相談に乗るよ」
「ここだと、ちょっと話しづらいから場所を変えよう」

二人は隊舎の自室に戻っていた。
フェイトがホットレモネードを二人分入れるとテーブルに綺麗に並べる。
そして、浮かない顔の親友に声をかける。

「なのは、それで相談って?」


彼女はとても言い辛そうにして、
フェイトが入れてくれたレモネードを一気に飲み干した。
爽やかな甘さと包み込むような優しい味。
普段の親友の人柄を思わせるその味に、少しだけ心が軽くなって…
重い口を開く。

「うん、実は最近の六課についてなんだけど……
 何かおかしいと思わない?雰囲気が変わってきているような……」

「そうかな?いつも通りだと思うけど……」
「でも、何かが違うような気がするの、
 フェイトちゃんも何か感じてないかな?」


真剣な面持ちで不安を語るなのはに対して、
フェイトは困ったような笑顔で答える。

「う〜ん、皆JS事件が解決して少し安心してるんだと思う。
 なのはが心配する程じゃないよ」
「そうだと良いけど……、フェイトちゃん、気を悪くしないで聞いてね」

少し居心地の悪そうな表情を浮かべながら、なのは は言葉を紡ぐ。

「皆の様子がおかしいなって感じ始めたの、
 実はフェイトちゃんが元防衛長官の彼を逮捕した時期と重なるの。
 だから、フェイトちゃんなら何か知ってるんじゃないかと思って……」



一瞬、フェイトが無表情になった。


「フェイトちゃん?」
「いやだなぁ、なのは。それは関係ないよ。だって私が彼を逮捕したのに
 その彼が私達に何かできる訳ないよ」


万遍の笑顔で答える親友になのは はゾクリとした感覚を覚えた。
嫌な予感がする。
こめかみの辺りがチリチリとして、
今この場にいることが危険であると彼女の勘が告げている。
こんな笑顔は知らない。
まるで能面のように張りついた笑顔。10年間一緒にいた親友だから分かる。
フェイトはあんな 『作り笑い』 は絶対にしない。

「フェイトちゃん……、変だよ。一番変なのは、やっぱり……」
『クスクスッ…、アハハハ……』
「フェイト……ちゃん?」
『さすがだね、なのは。私が生まれ変わっている事に気づいてくれてたんだ。
 やっぱり、なのは は私の大切な親友だよ。
 精一杯に 『以前の私』 を演じてたつもりだったんだけどなぁ……、
 やっぱり見抜いちゃうんだ』
「フェイトちゃん!!」

その瞬間なのは はレイジングハートに手をかける。
おそらくフェイトは上層部にメスを入れた際、
何らかの事故に巻き込まれ精神喪失をしている可能性が高い。
彼女は最初からフェイトの様子が以前と違っている事に気づいていたのだ。
だからカマを掛けてみた。
予測が外れて欲しいという願いを込めながら。

しかし、彼女の予感は悪い方で当たってしまっていたようだ。
最悪、もっとも大切な親友との戦闘になるかも知れない。
浮かない顔の最大の理由はそれだったのだ。だが……

『大丈夫だよ、なのは。
 私となのはが戦う理由なんて無いんだよ?だって、そろそろ……』
「??ウゥッ!これは……眩暈??そ…んな……」
『どうかな、特性レモネードの味は??たっぷり睡眠薬を仕込んであるから
 さすがのなのはも眠くてたまらないよね?』
「フェイト…ちゃ……ん?……どう…し……」

『お休みなのは。そしてようこそ、私達の世界へ……』


親友の今まで見たことが無い妖艶な笑みを見つめながら、
なのはの意識は暗い闇に沈んでいった。




淀んだ意識の中で、いくつもの記憶が揺らめく。
何か大切な事を忘れている。
その気持ちはいつも……10年間いつも抱いていた。
それが何かを思い出そうとすれば、必ず霧散してしまう。
でも、今なら思い出せそうな気がする。
今なら……



「ん……ここ…は」
『ようこそ、高町なのは一等空尉。私は君を歓迎するよ』
「……あなたは!?」

意識が急に覚醒した。
そして、今自分の置かれている状況が危機的であることを認識する。

「やはり、貴方は逮捕されていなかったのね!?」
『いや、違うね。
 この『体』は既に逮捕され管理局の法の元、裁きを待つ身だ』


目の前の『彼』はそう言いながらも悠然と構えている。
話を引き伸ばしながら、様子を伺う必要がある。

まずは相手を見据えながら自己の状況確認。
両手足は5重のバインドで縛られ、
さらに自分の周りには3重のクリスタルゲージが仕込まれている。
その周囲から数十センチ先はアンチマギリンクフィールドが展開されている。

次いで自己の戦力分析。
レイジングハートは案の定取り上げられている。
さらに自分の魔力数値はゆりかごでの戦闘の後遺症で全力の40%弱。
状況はほぼ絶望に近い。だがこの程度の状況ならば今まで何度も経験してきた。
最後に頼れるのは絶対にあきらめない勇気。それだけである。

「では何故、貴方は自由にしているの?」
『それはフェイト執務官の権限で現在も取調べ中だからだよ。
 ここはそう、取調室だ。そうだろう?フェイト執務官』

『えぇ、彼は取り調べの後、然るべき判決が言い渡されるでしょう。
 現在は私の責任で身柄を預かっています』
「フェイトちゃん!!……!?そのカッコ……」

闇から浮かび上がるように出現した親友を見て、
なのは は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
フェイトのバリアジャケットが黒を基調とした
余りにも露出の高い破廉恥なものであったからだ。
だがそれよりも、大変な事に気づいてすぐに顔を上げる。

「それは…?貴方!!フェイトちゃんに何をしたの!!?」

腹部に浮かぶベルカ式魔法陣。
そこから一瞬、全身に呪印の如き魔力回路が走るのを彼女は見逃さなかった。
妖しく輝く闇色の魔力がフェイトを支配し、
自分の大切な親友を 『別の何か』 に変えてしまっている。

『彼女は今や私のデバイスだ。私が彼女を扱う『主』なのだよ』
「確か…、かつて古代ベルカでも忌み嫌われた
 『人を道具として使役する呪法』。貴方はそれを使えるのね?」

『その通り。そして、彼女は実に優秀なデバイスだよ。
 六課掌握の殆どは彼女一人で行われたといっても過言ではない』


そういうと彼はフェイトを引き寄せ胸を揉みしだき、なのはに見せつける。

『あぁぁん…、ご主人様ぁ……』

うっとりと吐息を漏らすフェイトに、なのは は思わず顔を背ける。

「ひどい…なんで、こんな残酷なことが出来るの?
 人の存在を、心を道具にするだなんて!」

『それは君達人間の勝手な理屈だな。擬似人格とはいえ
 デバイスを従え、道具として使役することを良しとする者が、
 人道を訴えるのは偽善というものだよ?』
「…偽善でも構わない。
 私のことはいいよ、でもフェイトちゃんは解放しなさい!!」

『それは出来ない相談だ。私には目的がある。
 そして、そのためには彼女が必要だ』
「貴方の目的は何?何が貴方をそうさせるの!?」


一瞬の沈黙。
その後、『彼』はゆっくりと口を開いた。

『長い月日をかけて、世界は変わってしまった。
 その本来の有り様を全ての者が忘れてしまったかのように……』


悠然と構えていたはずの『彼』の雰囲気が一変する。
激しい憎悪の炎が揺らめいて、周囲の空気が陽炎のように歪む。
どこまでも黒く、おぞましい怨念のオーラに視界が震えているようだ。

『しかし、私は忘れてなどいない!!
 ミッドチルダが我々ベルカに何をしたのかも……』


その言葉でなのは は理解した。
目の前にいる存在が何であるのかを。
そして、その存在が闇の書の残滓とは違う、もっと危険な何かであるとも。

「そう、つまり貴方は古代ベルカの亡霊、復讐を目的としているのね……
 10年前のあの日、私達は貴方と似たような存在と戦ったことがある。
 あの時、あの子達の気持ちは私にも痛いほど理解できた」

『ふん、あの出来損ないどもか。あのような存在と一緒にされたのでは
 私も甘く見られているということか』
「でも貴方は違う!!
 貴方の存在は邪悪そのものだわ!!」

『フフッ、喜ばしいことだな。真の淀みと相対せず、円環の理の奥に潜む
 概念の意味も知らぬ君が始めて相対した『本当の敵』、それが私だ。
 本来ならば、観察者どもに君とのダンスタイムを披露するべきだろうが、
 残念ながらここは袋小路の死地だ。
 そして、君はここで英雄としての存在を終えることになる』
「言っている意味がよくわからない。
 それに、私はここで屈したりはしない!」

『大いに結構。やはり『本来の君』は雄々しくなくてはならない。
 高町一等空尉。君の聖王のゆりかごでの戦い、実に見事だった。
 そこで我々は君を仲間に迎え入れたいのだ』


どういうことなのか。
目の前の男はなのはも仲間に引き入れたいと言っている。
だが、このような邪悪な存在の片棒を担ぐなど、
彼女の選択肢に存在するはずがなかった。
それは管理局員であるなし以前の問題である。

「それを素直に応じるとでも?」
『もちろん、そうは思っていない。
 だが、君自身も忘れている事があるのではないかな?』
「私が……忘れている事…?」

何を言っているの……?
そう言いかけた時、なのはの目が大きく見開かれ、
言いかけた言葉が喉の奥で塞き止められる。

『忘れている事』

そう、その一言がキーワード。
仕込まれて、根付いていた物が芽をだしたのだ……



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