■8 WYNN
「戻ったか」
勝手に地上に向かった娘が戻ったと聞いた時、大神オーディンは表情を動かさなかった。
それは、娘を前にしても同じだった。
「…ご心配をお掛けしました、お父様」
俯いたままそう言ったヒルデガードは、次に父と二人きりになることを望んだ。
そうして誰もが去った部屋。
「…あくまでも」
父と娘は、二人きりで言葉を交わす。
「…あくまでも、魔族と戦うのですか、お父様?」
下を向いたまま紡がれる言葉は、以前と何一つ変わらぬ甘い言葉。
この娘は魔族に囚われながらなお、話し合う道を探そうと言うのだろうか。
オーディンには理解できなかった。
甘い。甘すぎる。
「当然だ。魔族は滅ぼし尽くさねばならない」
その言葉にピクリと娘の兜が動いた。
それを見たオーディンは、これ以上言葉を交わす必要を認めなかった。
部屋を去ろうと娘の傍らを歩き去るオーディン。
だが、彼は気付かなかった。
これ以上言葉を交わす必要を認めなかったのは―――娘も同じだったのだと。
ヒルデガードは立ち上がった。
去る父の背を認め、そして、
「!!…馬鹿、な…」
愕然として、己の脇腹を貫いた剣を見る。
誰が?など問うまでもなく、ここにはただ二人しかいない。
自分と、そして…
『お父様ってば、本当にうかつですね。隙だらけじゃないですか』
クスクスと笑う、自分の娘だけ。
「父を、殺すのか……?ヒルデガード…おまえは…」
それほど自分を恨んでいたのか。
娘への自らの言動を振り返れば、理由はあった。
交流は少なく、政治の道具としたこともある。
だが…
『いいえ、愛していましたよ…お父様』
返って来たのは否定の言葉。
だが、それならば説明がつかない。
愛しているなら、何故…
『でも…そんなもの…もうどうでもいい』
邪悪な微笑を浮かべ、陶酔した表情で娘は囁く。
そして、その鮮やかなエメラルドの鎧が、兜が、手甲が、漆黒と紫の色へと変化―――
否、本来の色を取り戻す。
『お父様も、天界も、戦乙女の使命もどうでもいい。
デュ―ク様のお役に立つことだけが、今の私のすべて』
引き抜かれた剣が今度は喉を裂く。
『できるだけ、苦しめてから殺せ…それが、デュ―ク様のご命令です。
えぇ、ですからできるだけ苦しんでくださいね、お父様?
その方が…私も、楽しいですし』
言葉を発せなくなったオーディンの、その顔を横薙ぎにした一閃が今度は光を奪う。
バランスを失って倒れ込み、すがるように手を伸ばすオーディンに、
再びヒルデガードは剣を振り上げる。
『ふふっ…死ぬのが怖いですか、お父様?でも、安心してください。
この程度の傷なら、まだまだ死にませんよ。
少しずつ、少しずつ、傷を増やしましょう。
そうすれば…しばらくは、生きていられますよ?』
そしてにこやかな笑顔のまま、父の血で自らを染めていった。
その様子を観察していた女の表情は笑みに崩れていた。
『ああ、素晴らしい。
まさかこれほどの光景を見れるとはね。
本当に、デュ―クには感謝しないといけないな』
笑顔のまま父を刺す少女の姿を惚れ惚れと見つめるロキ。
この光景をもたらすきっかけとなったのが、自身の言葉であることを彼女は知っている。
そのことを今オーディンに告げたなら、彼は何を思うだろうか。
『その表情をじっくりと観察したい気もするけど』
―――そんなことはいいか。これだけでもとても楽しいからね―――
飽きることなく、観察を続けたロキが去ったのは数時間経ってのことだった。 |