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甘く香る香が充満した部屋に、一人の少女が立ち尽くしていた。

丹精に整った顔立ち、華奢な体。
腰まで届く青色の長い髪と黒い帽子。
白地に黒の紋様が入った清楚な着衣。
しかし、それには極光を思わせる独特の飾りが施されており、
少女が普通の人間ではないことを主張している。

彼女の名前は比那名居天子(ひななゐてんし)。
天人と呼ばれる存在である。

元来は有頂天とも称される性格を有している彼女。
その瞳に宿る意思は(方向性はともかく)、強いものであるはずだった。
だが今、その瞳には何も映しておらず、
半開きになった唇からは、規則正しい呼吸音が響くのみだ。

『特製のお香の味は如何ですか?天人様』

「……」


返事はない。
虚空の一点を見つめる虚ろな眼(まなこ)、感情のない面。
その姿はまるで、丹精に作られた人形を思わせ…
美しい格子の窓から差し込む妖しい月光が
少女の艶やかな蒼空の髪を、しなやかに輝かせている。


『比那名居天子様。貴方の存在は私が頂きました。
 このお香がその体を満たすとき、貴方も私の物になるのです』


彼女の傍らにある香炉からは、煙がモヤのように立ち昇り…
人型に変化しつつ、ゆっくりと体の周りを渦巻いてゆく。


なぜ、このような事態となったのか?
話は数刻前にさかのぼる…





「それで面白い物って何?」

夕暮れも迫る山道で、天子は青年に問いかけた。

『それは着いてからのお楽しみでございます。
 ささ、日が暮れる前にその場所へとご案内いたしましょう!』

「ふ〜ん、何かはよく分からないけど、
 それは本当に退屈しのぎになるのでしょうね?」
『もちろんでございます!
 天人様の退屈を解消してくれる素晴らしい物をご覧にいれますよ!』

「……(本当に大丈夫かしら?なりゆきでついてきちゃったけど…)」


天子がこの青年と出会ったのは、つい先程のことである。
暇を持て余し、下界の町へと繰り出したところに
露天商をしている彼と出会ったのだ。

初めはどうせ地上の者の卑しい露店と、冷やかし半分に
のぞいていたのだが、これがどうしたものか…

気がつくと妙に引き込まれるものを感じ、食い入るように青年の
商売トークに耳を傾けるようになっていた。
彼が売っているものはどれも珍しいものばかりであり、
天界の様々な宝物を見ている天子にとっても興味が引かれる代物だったのだ。

「これなんて良いわね!翡翠で出来た指輪。
 天界の宝物は仰々しい物ばかりだから、簡素なモノが欲しくなるのよね!」
『ありがとうございます!う〜ん、他にも天人様のお目に適う物が
 あれば良いのですが… そうだ、これなんて如何でしょう?』


そう言うと、青年は六角形の紫水晶のペンダントを取り出した。
青年の掌に乗せられているソレは夕日を受けて、不思議な光を放つ。
…その光が天子の瞳に飛び込むと、まるで吸い寄せられるように
彼女の視線が固定された。

「これは……」
『やはり、これ程度の物では天人様を満足させることは出来ないでしょう。
 よろしければ、ここに持ってきた物とは比べるべくもない
 面白い物をお見せしますが、如何ですか?』

「…いいわね…、ぜひみてみたいわ…」
『ならば、ご案内しましょう。ついてきて下さい』
「うん…ついて…いく……」


抑揚のない声。先程までのはしゃぎ様が嘘のように
脱力した表情で天子は肯くのだった。


青年の後ろをフラフラと夢心地で歩く。
その様子を他人が見れば、夢遊病患者のように見えたことだろう。
だが、山道の中腹まできたところで、彼女の意識は急に回復した。

そして、冒頭の質問のシーンへと続くのである。
天子は一抹の不安を覚えもしたが、彼の言う『面白い物』に
妙にひかれる気がして…
そのままついていくことに決めたのだった。

視線を遠くにやると、夕日は山肌へと沈みこむ最中だった。
そう、夜が訪れようとしているのだ。



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